2009年度化学史研究発表会 エクスカーション報告

※編集部注:『化学史研究』第37巻第1号(2010.3): 18-19から転載。2010年度の化学史研究発表会(東京・明治大学)でもエクスカーションが計画されています。詳細は後日お知らせします。
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 2009年7月4日(土), 5日(日)に大阪大学豊中キャンパスで開かれた化学史研究発表会に先立って,7月3日(金)午後に大阪市内の化学史に関係する3箇所,杏雨書屋,適塾,舎密局址を巡るエクスカーションが実施され,芝哲夫が案内説明掛,中村征樹が世話掛を勤めた。

  
左:杏雨書屋(武田科学振興財団)にて宇田川榕菴関係資料を見学 右:大阪舎密局址のハラタマ銅像前にて

 会員参加者23名が,当日の午後1時に阪急宝塚線十三駅に集合し,まず武田薬品工場敷地内の杏雨書屋を訪れた。ここでは大正年間より武田薬品の五代目武田長兵衛氏により医薬,本草書を中心とする貴重書が蒐集され,その事業は六代目長兵衛氏に引き継がれて「杏雨書屋」と称されてコレクションの充実がはかられた。昔の呉の名医の董奉の患者たちが謝礼のしるしに杏の樹をその家の周りに植えたのが林になり,その杏林に降る慈雨の意の「杏雨」がこの書屋の名に冠せられた。杏雨書屋が属する武田科学振興財団の建物の前庭にその杏林が再現されていることの説明を聴いて一同入館し,特別に一室に展示された宇田川榕菴資料の実物を閲覧した。

 展示された資料は芝哲夫「杏雨書屋蔵宇田川榕菴資料(2)化学」『杏雨』創刊号,1998,55-102に拠って,順次「菩多尼訶経」「植学啓原」「KNIPHOF植物図譜」「舎密開宗榕菴手沢本」「舎密第一書」「舎密開宗音釈字篇」「開物全書図」「舎密提要」「舎密書」「年表」「元素発明年記」「舎密開宗残十一巻」「知生要略」「舎密器械図彙」「C.de Fremy 舎密原本 蘭原書」「西洋鉱泉譜」「榕菴温泉記事」「諸国温泉試説」「和蘭志略」などが展示された。特に「植物図譜」「舎密器械図彙」などの榕菴自筆の精密美麗な図に感嘆し,「舎密開宗 外篇巻一」の刊本とその直前の稿本の対比に榕菴の息吹を感じる思いがした。また「舎密原本」と「舎密器械図彙」との比較から榕菴が蘭訳書を通じてラボアジエについて研究を重ねていたことが明らかに認められた。

 杏雨書屋の最重要資料である榕菴の死によって中断されていた「舎密開宗」内外篇の未刊原稿を目の当たりに見学したことに一同感銘を新たにした。さらに化学には直接関係はないが「和蘭志略」の厖大な稿本は榕菴にとって「舎密開宗」を凌ぐ力作が用意されていたことを実感できた。最後に部屋の壁に懸けられた榕菴の唯一の肖像画を目の当たりにして全員感嘆を久しくした。さらに2階展示場の特別展示「渋江抽斎資料展」を見学して杏雨書屋を後にした。

 一同,阪急電車,地下鉄御堂図筋線を乗り継いで,次の見学先の北浜3丁目の適塾を訪れた。適塾は説明するまでもなく,天保9年(1838)に緒方洪庵によって開かれた蘭学塾で,福澤諭吉をはじめ明治の日本の近代化を担った多くの俊秀を輩出した塾として知られている。

 入り口の前で,昭和52年頃から行われた適塾修築保存事業の経緯を聴いて入館した。中で適塾の当時の大阪の町における位置の意義,緒方洪庵の略歴,適塾開塾に至った事情,洪庵の蘭書翻訳を主とした当時最先端の西洋医学導入の努力,独自の構想に基づく種痘事業の展開,蘭書会読を通じての独特の教育方法など緒方洪庵の偉業の説明を聞きつつ塾生の生活の跡が残る台所,ヅーフ部屋,塾生部屋を次々と見学し,新たな感銘を受けつつ適塾を後にした。
この後,再び地下鉄を乗り継いで,谷町4丁目で下車し,大阪城西の大楠樹の下の「舎密局址」の碑を先ず見学した。明治2年(1869)にこの地に舎密局が創設された歴史を改めて認識し,2000年に日蘭交流400年を記念して大阪大学で開かれたGRATAMA WORKSHOP -Chemistry and Chemical Technology for a Sustainable Society -を契機として募金によってK. W. Gratama の胸像が製作され,舎密局跡地の近くの楠樹の下に設置された経緯を聴いた。そのGratama 像を背景に全員の記念写真が撮られた。この頃小雨が降り始めたが,半日の大阪の化学史探訪エクスカーションは無事終了し,一同満足して午後5時ころ現地で解散した。(芝 哲夫)